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飯田政良と夏目漱石
投稿者:
2反田
投稿日:2008年 9月16日(火)02時54分15秒
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飯田は「自序」(大正十四年八月十五日 紀尾井町の仮寓にて)において、「女の夢」脱稿から発表に至る経緯を記しており、また断片的ながら文学的経歴を述べています。
《 自序
處女長篇「女の夢」を書き上げた時の私の歓喜は迚もこゝに書き現はすことは出来ない。私はその頃まだ二十過ぎたばかりの青年であつた、両親や兄弟や姉妹達、そつくり揃つた家族と、藁葺屋根の軒の深い、陰氣な一軒家に住んでゐた。書き上がつた五百枚ばかりの原稿を腕一配高く差上げて、「書けた、書けた」と叫んだ。原稿を抱えたまゝ、室から室へ雀躍りして駈け廻つた。その原稿が半年経つて辛つと、漱石先生のお世話で、徳田先生の御諒解を得て、同先生と私の合作と云ふ名義にして長谷川如是閑氏や渡邊霞亭氏の御盡力を受けて、大阪朝日新聞紙上に掲載された時は天へも昇る心地であつた。》
《私は二年許の間に七つの長篇と四十ばかりの短篇を發表した》
《私を最初に文壇に紹介して下すつた方は坪内逍遥先生であつたが、先生は單に私を文壇生活に入る機曾を與へて下すつたと云ふのみでなく、あらゆる意味において私の忘れ難き恩師であつた。》
これらの記述は、『漱石全集』収録の日記・書簡によって、かなりの程度まで裏づけられます。
ところで全集書簡の住所を見ると、明治42年当時、漱石と飯田が同一町内の、ごく近所同士だったことがわかります。夏目家は牛込区早稲田南町7番地、飯田は早稲田南町10番地です。
推測するに、どうも漱石は、飯田の作品を評価した上で発表機会を与えたというよりは、町内のご隠居が、若い者に勤め口をあてがうような気持で、原稿の世話をしたにすぎないのではないかと思えてくるのです。現に、大正2年飯田宛書簡では、就職先そのものを斡旋している世話焼きの漱石です。
おそらく飯田の性格と境遇とは、身近に接する漱石をして、文学的良心を排してまで、義侠心を発揮せざるを得ない程に恵まれないものだったのではないでしょうか(例えば、当時飯田は実弟を長患いの末に喪っており、作中で”死”を扱う動機となっています(「自序」))。
とはいえ、当人の才能を度外視した(としか思えない)漱石の好意が、当人にどれほど幸いしたかというと、これは判断に迷うところです。
「自序」後半にはこのような文章があります。
《それから間も無く私は筆を擲棄てゝ、病人と貧乏人に使はれて十年余も黙唖で暮らした。 …(略)… 然るに震火災は私の血を流し骨を削った十年の「黙」に対し「徒勞」を宣告した。運命の一喝、私はまた筆を執らねばならなくなつた。恁うなつた以上は、五年か、十年か、二十年か、五尺三寸の體内に流れる血液を悉く筆の先に滴らせて枯渇せしめるまで書かねばならぬ。》
晦渋な筆致からは、飯田が関東大震災で受けたダメージが甚大であったことがうかがわれます。そしてその再起を文筆活動に賭けようとしていたのです(”創作生活”と述べています)。
中年に至った飯田をして、改めてそのような決意をさせたものは、若き日に漱石の薫陶を受け、そして一度は『大阪朝日』を飾ったという自負心だったのではなかっでしょうか。漱石すでに亡き後、飯田の再起が実現したかどうかは不明です。
なお飯田は単行本化に際して、《過去二十年間の御好意》を蒙ったという坪内逍遥にも序文を求めていますが、これは断られています(「自序」)。逍遥との交渉については不詳ですが、少なくとも早稲田卒業生の校友会名簿には飯田らしき名は見あたりません。
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