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明治33年12月21日、星亨は第4次伊藤内閣逓信大臣を辞任します。収賄事件に係り、政友会星派の市会議員らが告訴収監されたことに対する引責であったとされます。公訴のきっかけとなったのは、『毎日新聞』(社長兼主筆・島田三郎)による一連の告発記事でした。当事者であった木下尚江の回想があります。
《毎日新聞が「公盗の巨魁星亨」と題して連日攻撃の記事を掲げ、且つ司法権の発動を促すや、星は忽ち逆襲の兵法を執った。》(木下尚江「自由の使徒・島田三郎」『神・人間・自由』)
この“逆襲”とは明治33年11月、星が主筆・島田に記事への責任署名を要求したことを指します(『毎日』の攻撃記事は全て無署名でした)。島田は詭弁を弄し回答を拒否、攻撃を継続し年末には星を失脚させるに至ったのです。更に『毎日』は追撃を図り攻撃を展開、星への公訴を要求します。
明治33年末のかかる状況を鑑みるに、星は『毎日』記事を根拠とした島田個人への問責は困難と判断し(形式的に告訴はしています)、次善の策として、自身の言論機関を設け『毎日』及び島田に対する防御反撃を企てたものと推測されます。すなわち『民声新報』がそれです。主筆に佐久間秀雄、編集長に国木田独歩が招聘され、翌明治34年1月1日『新報』は初号を発行。果たして連日『毎日』との論戦を繰り広げます。しかし明治34年6月21日、星亨は旧東京農学校校長・伊庭想太郎に暗殺されます。公判で伊庭は『毎日』を愛読していたことを証言しました。敗北した『民声新報』は暫く継続したものの発刊約一年で実質上廃刊し、編集員は四散しました(『民声』のノレンは後継紙に受継がれました)。
なお、『毎日新聞』の星亨攻撃記事の執筆者は主筆・島田三郎として世間に了知され長く信ぜられてきましたが、現在では、その殆どが木下尚江の筆に係るものであったことがほぼ明らかにされています(教文館『木下尚江全集 13巻, 14巻』解説:山極圭司, 岡野幸江)。島田三郎対星亨の代理戦争の尖兵が、木下尚江と国木田独歩であったとは、これもあまり光の当てられていない明治文学史の側面です。
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