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ミシマソーセン 三島霜川 みしまさうせん(一八七六~一九三四)
明治大正の小説家、劇評家。明治九年四月富山県西砺波郡麻生村に生る。本名才二。別号犀児、歌之助、椋右衛門等。早くより文学を志して上京し、一時は尾崎紅葉の門を叩いたことがあり、文壇的には硯友社の系統に属し、徳田秋聲と最も親交があった。明治三十一年八月「埋れ井戸」を『新小説』に発表以来、『人民新聞』『世界之日本』『中外商業』『文芸倶楽部』『小天地』『新小説』に作品を発表し、田園趣味の作風を以てその特色を次第に認められ、同三十六年には名作「山霊」を『文芸界』に載せ、翌三十七年には当時文壇の新声と謳はれた短篇集『スケッチ』を上梓した。その後『中央公論』『新潮』等に「解剖室」「新生命」「悪血」「栗の花」等の異色ある作を出して世評を喚起し、作品数長短百余篇に達したが、その最高潮期は、自然主義文学の勃興時代までであったと見られる。のち漸次創作に遠ざ〔か〕り、同四十年『演芸画報』創刊の頃から関係し、犀児、歌之助、椋右衛門等の名の下に、「芝居見たまま」「役者の批評」劇評等の類を寄せ、見たままの「堀川」「勧進帳」「四谷怪談」役者批評の「東西役者の噂」「花形俳優月旦」「役者の顔」「近世名優伝」など、立派な読物として評判を得たが、中にも大正初めから数年に亙って連載した「大正役者芸風記」は、この類の批評中、稀に見る出色の字として賞讃を博した。その後同誌の編輯事務を司つて劇文壇のために力を致し、その間に日活や松竹のシナリオを書いたり、石井漠一座の歌劇の興行に関係するなど、この時代が世間的に最も活動した時であった。震災後は暫く画報と離れ、『院本正本日本戯曲名作大系』などの編著に従事したが、昭和二年頃から再び演芸画報に縁が結ばれ、爾後歿前まで編輯の一部を担当した。昭和九年二月号の「歌舞伎狂言と俳優との相関性」は異彩ある文字であったが、これを絶筆として同年三月七日に歿した。年五十九。彼は劇文壇特異の存在として、独自な芝居の見方に立派な足跡を止めたが、脚本にも野心があったらしく、「鰤」「船出の前」等の作がある。(秋葉)
出典:『新撰大人名辞典 第六巻』
・発行 昭和十三年十月 (1938.10)
・発行所 平凡社
・執筆者 秋葉芳美
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なお、上記は『新撰大人名辞典』の復刻版である昭和54年7月の『日本人名大事典』の
同項によった。
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